てんせいじんごっこ.blog

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《朝ドラ》連続テレビ小説『カーネーション』を観た感想

  carnation
  http://www9.nhk.or.jp/carnation/

脚本:渡辺あや
演出:田中健二・末永創・安達もじり
出演:尾野真千子 麻生祐未 正司照枝 栗山千明 宝田明 十朱幸代 小林薫 他

 人は興奮すると、「ゾクゾクする」という時がある。僕の場合、良い音楽を聞いたり素晴らしい映画やドラマに出逢った時、鳥肌が立ったり背筋に何かがザワザワと走る時がある。恐縮しながらも自画自賛させて頂きたい。僕に鳥肌を立たせた作品は、必ず大ヒットするのです。僕は学生の頃、この微細な感覚を使ってヒットチャートの上位を独占する名曲を言い当ててきた実績があり、それは僕の友人や同級生の間では、広く知られた事実なのです。しかし、歳を重ねると(そう言えるほどの年齢でもありませんが)そういった感覚は鈍くなっていく。つまり、偏見や先入観に阻害されて些細なことでは感動しなくなるものですが、連続テレビ小説『カーネーション』の第一話のオープニングから椎名林檎さんの主題歌が流れだした瞬間、全身の毛が逆立つような感覚を受けたのでした。その時僕の心に響いた言葉は、「大変だ!大変なドラマが始まってしまった!これは一刻も早く誰かに伝えなければいけない」という衝動です。大急ぎで階段を駆け下り、階下で朝食の支度をしている昭和一桁の母のもとへと走り、早朝の喧騒に憮然とした表情の母に向けた挨拶がわりの言葉は「いいから黙ってみろ!」だったと思う。あのミュージカルタッチのオープニングから主題歌に繋がる数十秒は、久方ぶりに味わう芳醇な香りに満ち溢れた珠玉の瞬間でした。このドラマは何かが違う。いや、全てが違うのかもしれない。大風呂敷を広げようじゃないか!間違いない、連続テレビ小説『カーネーション』は、近代稀に見る名作になるだろう

 この気持ちは、回を重ねた今でも変わらない。と言うよりも、僕にとってそれは確信に変わっている。週6回の一話たりとも無駄な回が無いのだ。予想できない展開は良い意味で視聴者を裏切り、意外な結末は笑いと涙を誘う。台詞のひとつひとつが胸に刺さり、何気ないワンシーンが体の中に沁み渡る。役者の汗と吐息、脚本家の才能と想い、演出家を含めたスタッフ全員の心意気がビリビリと伝わってくる。引き込まれ、揺さぶられ、叩き付けられる展開に、もうメロメロです。僕はまるで、両手いっぱいの花束をプレゼントされたような錯覚の中にいる。このドラマには、オートクチュールであつらえた華やかなドレスの中に、手編みのマフラーのような愛情が込められているのだろう。歯が浮くような臭い表現しかできない自分が恥ずかしいのだが、この気持ち、分かって頂けるだろうか。

 カーネーションを観ていて気になったことがあるのですが、それは、「このドラマには秀逸な少女マンガに通じるセンスが溢れている」という感触。大和和紀さんの『はいからさんが通る』とか、椎名軽穂さんの『君に届け』といった、涙あり笑いありの名作と同じく、女性でなければ描けない味が色濃く出ているのです。ちなみに僕は、姉が二人の末っ子長男なので、少女漫画には慣れ親しんでおります。ともかく、このブログにも記さなければいけないので検索してみれば、やはり自分の勘は当たっていました。言っておきますが、後出しジャンケンではありませんからね。でもって、脚本家の渡辺あやさんは『火の魚』という作品で尾野真千子さんと一緒に仕事をなさっています。尾野真千子さんは悲願の末、オーディションによって今回の主演を掴んでいますが、両者共に関西出身ということもあり、関西人の物語であるこのカーネーションという作品に対する気持ちは、お互いに響き合うものがあったのかもしれませんね。台本がクランクインの段階でどこまで書き進んでいたのか気になりますが、撮影と同時進行な部分があれば、作家にとってこのキャスティングは、いい刺激になっているのでしょうね。この関西人による関西人ならではのエッセンスは、脚本やキャスティングだけでなく、ドラマの中の随所に散りばめられているのですが、舞台の中心である岸和田の言葉というのは、同じ関西人からしても難しい微妙なイントネーションの違いがあるそうなので、皆さんご苦労なさっているそうです。幸か不幸か関東の人間である僕にとっては、その辺りは全く気にならないどころか、同郷の人間が一丸となって仕事をしているクオリティの高さが羨ましいくらいなもんです。細かいことを言えば、「大阪と京都と奈良を一緒にするな」とか、「岸和田の地車(だんじり)は、あんなもんと違う」と思われるでしょうが、そういった所が引っ掛からない幸せは、理解して頂きたい。逆に、何気ない端役や脇役に関西のタレントさんや芸人さんが起用されていて、「なるほど、そう来ましたか」と笑えない辺り、悔しくもあります。尾野真千子さんが演じるヒロインの小原糸子が務めた紳士服ロイヤルの店主は、ハーフ系ファッションモデルのカリスマである団時朗さんなのは粋なキャスティング。彼の演じる大将(役名が無いのね)の母は東京出身という設定で、そのことを部下に向かって「俺は大阪と違ってハイカラなんだ」といった感じで自慢する場面があったのですが、そん時の妙な関東なまりは傑作でした。あれ、大阪の人にとっては、どんな感じだったのか気になります。そういえば、日テレのドラマ『ドン☆キホーテ』に出てくる鰯原組長が、鈴々舎馬風師匠だったのも洒落ていた。ともかく、仕事の中にも遊び心を忘れない人達というのは、いくつものサプライズを持ってして我々を楽しませてくれるのだ。

 さて、このドラマのヒロイン小原糸子のモデルは、コシノ三姉妹の母である小篠綾子さんですが、これもまた幸いなことに、僕は小篠さんの著書を全く読んだことがありません。ドラマの原作になった小説や漫画を読んでしまうと、自分のイメージが先行してしまい「ここチョット違うんだよなぁ」なんてことになりかねない。そういう意味では、非常に恵まれた環境で楽しませて頂いています。ところが、僕は数年前にコシノ三姉妹が故郷の岸和田に帰り、3人が母の営む店を覗きに行くという内容の番組を観たことがありまして、狭い店内に広がる大阪定番アニマルプリントの商品の中から、娘達がどこかで見たことある服を次々に発見する場面があったんです。そして、「お母ちゃん、コレは・・・」と口ごもる娘達に向かって放った母の言葉は、「あんたらを産んだのはワタシ、自分の娘のデザイン盗んで何が悪い!」みたいな感じだった気がする。このような矛盾が成立する人格は、小林薫さん演じる糸子の父、小原善作にそのままフィードバックされている感じがいたします。節操のない頑固者の父親は、状況劇場出身の小林薫さん。その母である糸子の祖母は、ドサ回りの旅芸人だったカシマシ娘の正司照枝さん。竹久夢二の美人画のような糸子の母、小原千代を演じるのはグラビア出身の麻生祐未さんです。この適材適所に配属された燻し銀の役者体が、少ない出番の中にも大正時代の人情味溢れる岸和田の家族を具現化している様には、頭が下がる思いです。その木目細かさは制作側にも言えることで、昭和一桁生まれの僕の母曰く、着物の柄からトックリ1本に至るまで妥協がないそうで、それは単に時代考証や季節に合わせるだけではなく、小さな小道具ひとつにも大正ロマンのモダニズムが盛り込まれているという。これらはまさに、針の穴に糸を通す集中力ですね。

 このブログを書いている時点では、糸子はまだ洋裁店の下働きでしかないのですが、この先彼女はいくつもの出会いと別れを経験し、喜びと悲しみを味わいながら生きて行くのだろう。そしてまた、これから数多くの個性豊かな俳優陣が登場するこのドラマ、一話たりとも見逃せない。評判の良かった『ゲゲゲの女房』第一話の視聴率は史上最低。カーネーションの初回の視聴率は、前作の『おひさま』には及ばなかったが、その数字は傷を舐め合う偽善に満ちた駄作によって、視聴者を引き止められなかった失態の結果でしかない。この物語には、それを巻き返す以上の力があるのです。主役の尾野真千子は、既に小原糸子という役柄と同化している。男尊女卑が当たり前だった大正時代から激動の昭和史を、力強くもはんなりと駆け抜けるオノマチの糸子が、ヘコタレた今の日本に喝を入れてくる。それはまさしく母の愛であり、贅沢に溺れた現在の日本人が忘れた、お金に換えられない大切な気持ちを呼び覚ましてくれる。こんな素晴らしい物語を、茶の間で鼻糞ホジホジしながら観させてもらえるのだ。「僕は日本人で良かったなぁ」と再確認させてくれるNHK大阪放送局には、ただ感謝するのみであります。

 それにしても、栗山千明という俳優さんは、これほどまでに麗しい女性だったとは知らなかった。そして、尾野真千子さんの表情は、ある時は神々しいほど美しく輝き、またある時はえらく不細工にも映る。女の人というのは、常に自分を可愛く見せようとする僻があるのですが、男からすればメッキが剥がれた女ほど、見るに耐えないものはない。糸子は男の気を引くための愛想笑いなどしない真っ直ぐな娘、役作りをしながらも、自分をよく見せようとする欲なんて、彼女の頭の中には微塵もないのだろう。こんな豊かな表現力を長丁場で発揮できる役者は、滅多にお目に掛かれない。NHKの『スタジオパーク』に小林薫さんが出演なさった時、談話の中に「彼女は台詞だけでなく、感情までもしっかり準備して役作りをしている」という趣旨の話をされていました。そして、「連ドラの収録とは、一時間半のドラマを毎週撮影しているようなもの」ということを伺うと、彼女がこの役に賭けている情熱が伝わってくる。連ドラのヒロインとは、芯のない役者には成し得ない仕事なのでしょう。糸子が見せる表情には、尾野真千子という役者の人柄が滲んでいるのかもしれません。最後にひとつ、赤いカーネーションの花言葉は『母の愛・熱烈な愛・真実の愛・哀れみ』などがあるそうです。



【追記】

 今にして思えば、連続テレビ小説『カーネーション』のクランクインは2011年の5月頃。その時、阪神淡路大震災を経験している関西の人達が「今ここで自分達は何をするべきか」という気持ちから、役者とスタッフの全員が心をひとつにして、この作品に取り掛かった背景が伺える。しかし、インタビューやプレスを見ていても箝口令を敷いたように、そのような言葉を並べたものは殆ど無いに等しい。メジャーリーガーの鈴木イチローさんは、様々な団体に毎年多額の寄付をしているにも拘らず、自らそれを表に出そうとしない。「知る者は言わず、言う者は知らず」政府や企業が様々な活動をしている中、労いや弔いの言葉を述べるよりも「今私にできることは、これしかないんです」という本当の気持ちは、凍てつく冬を迎える三陸の地に必ず届いているだろう。「遠くの親戚より近くの他人」という言葉があるが、遠く離れていても岸和田の下町人情は、語らずして寄り添っていてくれる。・・・ありがとう。

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Y125もえぎ(MOEGI)メーカーの思いユーザーに届かず

yamaha125.jpg

 ヤマハ発動機は、第42回東京モーターショー2011にコンセプトモデルを含む二輪車20機種と、パーソナルビークルの多様性を演出する特別出展モデル5台を展示する。今回のショーのテーマは「あしたらしい風」。世界初公開となる『Y125もえぎ(MOEGI)』は、ヤマハのデザインフィロソフィを織り込みながら、自転車のような親しみやすさを併せ持つコンセプトモデル。世界のスタンダードクラスとされる125ccエンジンを搭載し、軽量でスリムな車体との組み合わせにより、低燃費とやさしい乗り心地を追求した。日常生活でのコミューティングや遠出をしたくなるようなアクティブなイメージも兼ね備えると、している。
http://response.jp/article/2011/11/09/165157.html



 ヤマハ発動機がこの度のモーターショーに合わせて発表したコンセプトモデル『Y125もえぎ(MOEGI)』。これを見て、「赤トンボじゃねぇか!」と感じた人は『バイク通』もしくは『オッサン』ということになる。というのには理由がある。僕がこの情報を知ったのは、幸か不幸か『2chニュー速クオリティ』で、そこに書かれたレスポンスが酷いことになっている。全文読みたい方は下のリンクをクリックして下さい。
http://news4vip.livedoor.biz/archives/51840347.html

 ヤマハ発動機の初号機YA-1(通称:赤トンボ)を彷彿させるこのY125MOEGIは、官能的なデザインの車両を数多く生産するヤマハの原点回帰とも思えるコンセプト車だ。現在の厳しい排ガス規制・加速騒音規制に苦しめられている中、この発想は賞賛に値するが、世界のバイク産業を牽引してきた日本メーカーの心意気も、モバイルを手放すことができない若者には『駄作』としか映らないようだ。まぁ、所詮は2ちゃんのレスポンス。アンポンタンが手前勝手な持論を吐いている程度のものでしかないのだが、時間と金をかけて制作したコンセプトモデルに対する意見に、乗り物離れが進む若いユーザーとメーカーの距離を感じる

 酷評の大半はタイアの細さに集中していて、「コケる・危ない・スピード出せない」といった内容に終始する。それに対して接地面積やタイアの直径に関して解説する者も現れるが、多勢に無勢の様相は変わらず、僕のように21世紀のYA-1だと感じる人は1~2%といったところ。その他にありがちなのは、ソレックスのような自転車にエンジンを載せたモペットや、以前ホンダが市販していた『ソロ』に似ているという意見が目立つ。僕としては、「分かっちゃいねぇなぁ」と言いたいところ。この結果を閲覧した関係者のため息が聞こえてきそうだ。

 タイプこそ違うが、ヤマハでスリムさが売りのバイクといえば、SDR200という名車が嘗てあった。一人乗り専用設計とすることでサスペンションのセッティングを最適化したモデルであったが、そのマニアックすぎるコンセプトと、スペックに拘るユーザーに理解されなかったこともあり、SDR200は商業的に失敗作として終わったモデルである。今でこそ、その斬新さと希少性で価値のあるコレクション車として人気を集めているが、今日のバイクメーカーに同じ過ちが許される余裕は無いだろう。いくらメーカーが「これが正しいのだ!」と主張しても、消費者が「これはイイ!」と受け止めなければ商品は売れない。イタリアンにうつつをぬかし和食の真髄を忘れた日本人に、ヤマハは一石投じることができるのだろうか。Y125MOEGIが単なるコンセプトモデルに終わらないことを期待したい。

宇宙戦艦ヤマトと機動戦士ガンダムの境界線

yamato_gundam.jpg

 今回は世の中が津波や地震、大洪水といった災害に加え、TPPやギリシャの経済的破綻といった様々な問題が続く中、アニメについて語ろうとしています。予め言っておきますが、僕はアニオタではありませんからね。

 僕が宇宙戦艦ヤマトをテレビで観たのは小学3年生の頃。とはいっても、それは夕方5時頃の再放送で、ヤマトブームが始まった切っ掛けも、この再放送からである。ヤマトの本放送は『アルプスの少女ハイジ』の裏番組であり、あの頃テレビは一家に一台が普通。チャンネルを決定する主導権は親にあり、たとえヤマトが観たい男の子が家にいたとしても、選択肢は教育の一環も含めて家族全員で楽しめるハイジに軍配が挙がったのでした。だからといって皆渋々ハイジを観ていた訳ではなく、当時はヤマトの事すら知らず、そのストーリーすらも分からず、クララが立った時の感動を家族全員で共有できた良い想い出は、我々の世代にとっての共通言語だろう。

 あの頃の戦うSFアニメ(マジンガーZとかゲッターロボなどの事)は、ウルトラマンや仮面ライダーといった特撮物と同じく、幼稚園児や小学生向けの作風が主体の中、地球を救うため秘密裏に建造された戦艦が未知の世界に向かって365日の旅に出るという壮大なスケールで描かれたストーリーと、斬新なコンセプトとデザインに溢れた兵器などの『ヤマトワールド』が広い年齢層の男子に衝撃を与えたのでした。当時のアニメは映画館で放映されたとしても、『東映まんがまつり』のようなオムニバスがほとんどで、アニメを『劇場公開作品』に昇格させたのもヤマトが先駆けといえるだろう。いろんな意味合いを含めて宇宙戦艦ヤマトはアニメの金字塔であり、僕らの心に『愛と勇気』という概念を植え付けた。

 一方の戦うSFアニメはマジンガーZがグレートマジンガーに昇格したように、ゲッターロボからゲッターロボGへ、そして『勇者ライディーン』のような人間と機械が融合したような新しいコンセプトを交えながら進化して行き、巨大ロボットシリーズは機動戦士ガンダムという新しい作風を迎えた。ガンダム以前の巨大ロボットシリーズは一話ごとに敵キャラが現れ、必殺技をもってして勝利する手法が一般的だったのに対して、ガンダムはヤマトの地球防衛軍vsガミラス艦隊のように、地球連邦軍vsジオン公国軍の戦いをベースにストーリーが展開する。その描写はヤマトがそうであったように、生身の人間が兵器に搭乗し、人間が機械を操縦して戦うというリアリティが他のアニメと違い、視聴者が感情移入しやすい内容になっている。つまり、ガンダム以前の敵方ロボットには、それを操縦するパイロットが存在せず、主人公が搭乗したロボットvsロボット怪獣という構成になっているが、ヤマトやガンダムは、兵器に搭乗した人間と人間の戦いなのだ。他のアニメ作品は子供向けのスーパーヒーロー的作風なのに対して、ヤマトやガンダムは実戦経験の無い少年や青年が、戦いの中で強く成長して行くという内容になっている。ご存知のように機動戦士ガンダムは大ヒットし、そのコンセプトは後の新世紀エヴァンゲリオンへと受け継がれて行くのでありました。

 機動戦士ガンダムが放映されたのは僕が思春期を迎えた中学生になってからで、お子様向けのアニメは卒業するお年頃。あれだけ流行ったスーパーカー消しゴム飛ばし競争にも飽きて、興味の対象は女の子に注がれて行くのですが、所詮は中坊、中には産毛すら生えていない同級生もいたもんで、そういう奴に限って昼休みの話題はアニメの話だったりしました。折しも時代はツッパリ全盛期、やんちゃ盛りの男子達は中ランにボンタンという出で立ちで、空想の世界でしかなかった戦いは拳と拳のタイマン勝負に換わり、度胸の無い奴は大人しく暮らすしかありませんでした。

 そんなもんで、ガンダム観ていた奴なんてのは小馬鹿にされるのが嫌なもんだから、教室の隅や人の少ない便所の中で、自分が描いたセル画を自慢したり交換したりしてたもんで、オタク創世記は不良ブームの陰で産声を上げていたのでした。つまり、ツッパリ達は陰でコソコソしながらタバコをふかし、オタク達は陰でコソコソしながらセル画を交換していた訳です。あの頃のオタクは肩身の狭い存在でしたが、今やオタクは経済の一端を担う存在へと変わり、『2ちゃんねるで暴言を吐く』という成長を見せるようになりました。という言い方になるのは当然、僕はケンカに明け暮れたとまでは行かないまでも不良グループの一員のようなもので、ガンダム観たこと無い訳ではないけど、セル画を自分で描いたりするようなことは有りませんでした。だけど、『風の谷のナウシカ』にハマった時は大変でした。映画のストーリーはナウシカが復活したところで終わってますが、原作の連載は続いていたんですね。それ読みたさに本屋に行ったんですけど、アニメージュがあるコーナーに立つのはエロ本コーナーにいるよりも恥ずかしかったです。

 僕はアニメオタクではないといっても、普通に『うる星やつら』とか『めぞん一刻』は観ていました。でも、「古代君が死んじゃう!」の森雪にキュンとしても所詮は二次元、叶わぬ恋で御座います。そういう意味でアニメ卒業したヤマト世代の僕達からすれば、「親に殴られたこともないのに!」と泣きじゃくるアムロ・レイは受け入れられない幼稚な存在で、この辺りにこそ宇宙戦艦ヤマトと機動戦士ガンダムのボーダーラインがあるのです。それはつまり、『公と個の対比』であると思うのです。

 ヤマトの主人公である古代進は戦闘班のリーダーではあるが、彼は超能力者でもなく、身体能力などの点に於いて特別秀でた人物ではない。ただし、敵の攻撃によって家族を失い、その復讐と共に「全人類の未来のために戦う」という大義名分を背負っている。つまり、古代は自分のために戦っているのではなく、家族や仲間のために、人類のために戦っていて、それが自分自身の使命でもあるのだ。

 それに対してガンダムのアムロ・レイは『ニュータイプ』という先天的才能を秘めた人物であり、ストーリーの中に於いてもその部分が全体的に押し出された構成になっている。ガンダムに於いても仲間や愛する人のために戦うという内容は盛り込まれてはいるが、アムロのそれは古代の強い意志とは大きく違っている。そもそも、古代という人物は社交的であり、不幸の中にありながらも『希望』という言葉を失っていない。対してアムロという少年は非常に内向的で、ガンダムを載せた空母『ホワイトベース』に搭乗した理由は避難民である。アムロは志願兵ではなく、都合上仕方なく戦い始めたといえるだろう。古代が抱えている憎しみは、地球を侵略する敵軍ガミラスに向けられたものであるが、アムロ達の場合は不遇の運命にさらされた自身の内面に向けられた部分が強い。つまり、古代は戦いたいのだが、アムロは嫌々戦っているのだ。それは、アムロの声を担当した声優に、『巨人の星』の星飛雄馬を演じた古谷徹さんが起用されていることも裏付けになっているだろう。

 この『悩みを抱えた内気な少年が嫌々戦う』という設定は、エヴァンゲリオンの碇シンジにも受け継がれていくのです。余談ですが、アムロの能力とガンダムのビームサーベルは、『スターウォーズ』に登場するルーク・スカイウォーカーの『フォース』と『ライトサーベル』のパクリだと僕は思っている。そんなことも含め、ガンダムはオリジナリティに欠けた幼稚な作品という印象が強いのです。

 「歌は世につれ世は歌につれ」という言葉があるように、どちらが先かは断定できないが、思春期の子供がアニメやゲームなどの影響を受けていることは事実だろう。任侠映画が流行っていた世代は『ヤクザ』という肩書きに憧れを抱いた人もいるように、アムロの『ニュータイプ』という姿に影響を受けた人もいるかもしれない。さすがに、大人になってまでして「自分には超能力があるかもしれない」なんて特別意識を抱いている人は稀だろうが、潜在意識に働きかけているかもしれないと思われる症状がある。

 ファミコンやパソコンが流通し始めた頃に「切れる子供」が問題視されたことがあった。医学的に立証された訳ではないが、ゲーム脳やネット依存などの症状も報告されているように、ガンダムやエヴァンゲリオンの影響と思われる症状が各世代に見受けられると僕は感じている。皮肉にも『新人類』と呼ばれた世代の人は『ニュータイプ』のガンダム世代に重なっているが、いじめや不登校などの問題が出てきたのも、このガンダム世代以降だと言えるだろう。いじめや不登校は、それ以前にもあることはあったが、そこにある状況は変化している。いじめに関しての変化は、いじめられる対象者が必ずしも弱者ではないという点が挙げられる。昔のいじめられっ子というのは、未熟であったり体力的に弱い者が主な対象とされていた。つまり、『弱い者いじめ』である。しかし、現代のいじめの対象は、活発な子や成績が優秀で先生に評判のいい子などがいじめの対象となるケースが目立つ。そして、いじめている方の人間も不良という訳ではなく、ごく普通の平均的な児童が中心だったりもする。つまり、平均的な普通の子供達にいじめの判断基準が握られていて、その枠からはみ出た空気を読むことができない者がいじめられる対象になっている。そして、不登校児童にも変化が見受けられる。

 昔の不登校児童というのは、学校に行かず、ゲームセンターなどの娯楽がある場所に行ってしまう傾向があったのだが、今の不登校児童は、自分の部屋に引きこもる傾向が強い。前者の不登校児童は、今でいう『プチ家出』をする子に当てはまるのだろうが、『引きこもり』に関しては少し状況が違うだろう。昔の子は、たとえ引きこもったとしても限界があった。つまり、引きこもってはいるが、その状況に満足している訳ではなかったのだが、今の引きこもりは外の世界を完全に拒んでいる傾向がある。つまり、引きこもっている方が居心地が良いのである。また、ネットなどの恩恵にもあやかってバーチャルに社会と繋がることもできるので、退屈することが無い。引きこもりという現象は以前は有り得ないものとして捉えられていたものが、今では広く認識される常識と化してしまったのも、引きこもりに対する後ろめたさを希薄にしているのだろう。そして、ヒットしたアニメの主人公も、つまり、アムロや碇シンジも自分と同じ悩みを抱えた内向的な少年であるがために、そこに自分の居場所を見出してしまっているのかもしれない。僕らの世代にとってヤマトの古代は憧れの対照的要素が強かったのに対して、アムロや碇シンジはその世代の人間にとって『心のよりどころ』的存在なのかもしれない。
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