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宇宙戦艦ヤマトと機動戦士ガンダムの境界線

yamato_gundam.jpg

 今回は世の中が津波や地震、大洪水といった災害に加え、TPPやギリシャの経済的破綻といった様々な問題が続く中、アニメについて語ろうとしています。予め言っておきますが、僕はアニオタではありませんからね。

 僕が宇宙戦艦ヤマトをテレビで観たのは小学3年生の頃。とはいっても、それは夕方5時頃の再放送で、ヤマトブームが始まった切っ掛けも、この再放送からである。ヤマトの本放送は『アルプスの少女ハイジ』の裏番組であり、あの頃テレビは一家に一台が普通。チャンネルを決定する主導権は親にあり、たとえヤマトが観たい男の子が家にいたとしても、選択肢は教育の一環も含めて家族全員で楽しめるハイジに軍配が挙がったのでした。だからといって皆渋々ハイジを観ていた訳ではなく、当時はヤマトの事すら知らず、そのストーリーすらも分からず、クララが立った時の感動を家族全員で共有できた良い想い出は、我々の世代にとっての共通言語だろう。

 あの頃の戦うSFアニメ(マジンガーZとかゲッターロボなどの事)は、ウルトラマンや仮面ライダーといった特撮物と同じく、幼稚園児や小学生向けの作風が主体の中、地球を救うため秘密裏に建造された戦艦が未知の世界に向かって365日の旅に出るという壮大なスケールで描かれたストーリーと、斬新なコンセプトとデザインに溢れた兵器などの『ヤマトワールド』が広い年齢層の男子に衝撃を与えたのでした。当時のアニメは映画館で放映されたとしても、『東映まんがまつり』のようなオムニバスがほとんどで、アニメを『劇場公開作品』に昇格させたのもヤマトが先駆けといえるだろう。いろんな意味合いを含めて宇宙戦艦ヤマトはアニメの金字塔であり、僕らの心に『愛と勇気』という概念を植え付けた。

 一方の戦うSFアニメはマジンガーZがグレートマジンガーに昇格したように、ゲッターロボからゲッターロボGへ、そして『勇者ライディーン』のような人間と機械が融合したような新しいコンセプトを交えながら進化して行き、巨大ロボットシリーズは機動戦士ガンダムという新しい作風を迎えた。ガンダム以前の巨大ロボットシリーズは一話ごとに敵キャラが現れ、必殺技をもってして勝利する手法が一般的だったのに対して、ガンダムはヤマトの地球防衛軍vsガミラス艦隊のように、地球連邦軍vsジオン公国軍の戦いをベースにストーリーが展開する。その描写はヤマトがそうであったように、生身の人間が兵器に搭乗し、人間が機械を操縦して戦うというリアリティが他のアニメと違い、視聴者が感情移入しやすい内容になっている。つまり、ガンダム以前の敵方ロボットには、それを操縦するパイロットが存在せず、主人公が搭乗したロボットvsロボット怪獣という構成になっているが、ヤマトやガンダムは、兵器に搭乗した人間と人間の戦いなのだ。他のアニメ作品は子供向けのスーパーヒーロー的作風なのに対して、ヤマトやガンダムは実戦経験の無い少年や青年が、戦いの中で強く成長して行くという内容になっている。ご存知のように機動戦士ガンダムは大ヒットし、そのコンセプトは後の新世紀エヴァンゲリオンへと受け継がれて行くのでありました。

 機動戦士ガンダムが放映されたのは僕が思春期を迎えた中学生になってからで、お子様向けのアニメは卒業するお年頃。あれだけ流行ったスーパーカー消しゴム飛ばし競争にも飽きて、興味の対象は女の子に注がれて行くのですが、所詮は中坊、中には産毛すら生えていない同級生もいたもんで、そういう奴に限って昼休みの話題はアニメの話だったりしました。折しも時代はツッパリ全盛期、やんちゃ盛りの男子達は中ランにボンタンという出で立ちで、空想の世界でしかなかった戦いは拳と拳のタイマン勝負に換わり、度胸の無い奴は大人しく暮らすしかありませんでした。

 そんなもんで、ガンダム観ていた奴なんてのは小馬鹿にされるのが嫌なもんだから、教室の隅や人の少ない便所の中で、自分が描いたセル画を自慢したり交換したりしてたもんで、オタク創世記は不良ブームの陰で産声を上げていたのでした。つまり、ツッパリ達は陰でコソコソしながらタバコをふかし、オタク達は陰でコソコソしながらセル画を交換していた訳です。あの頃のオタクは肩身の狭い存在でしたが、今やオタクは経済の一端を担う存在へと変わり、『2ちゃんねるで暴言を吐く』という成長を見せるようになりました。という言い方になるのは当然、僕はケンカに明け暮れたとまでは行かないまでも不良グループの一員のようなもので、ガンダム観たこと無い訳ではないけど、セル画を自分で描いたりするようなことは有りませんでした。だけど、『風の谷のナウシカ』にハマった時は大変でした。映画のストーリーはナウシカが復活したところで終わってますが、原作の連載は続いていたんですね。それ読みたさに本屋に行ったんですけど、アニメージュがあるコーナーに立つのはエロ本コーナーにいるよりも恥ずかしかったです。

 僕はアニメオタクではないといっても、普通に『うる星やつら』とか『めぞん一刻』は観ていました。でも、「古代君が死んじゃう!」の森雪にキュンとしても所詮は二次元、叶わぬ恋で御座います。そういう意味でアニメ卒業したヤマト世代の僕達からすれば、「親に殴られたこともないのに!」と泣きじゃくるアムロ・レイは受け入れられない幼稚な存在で、この辺りにこそ宇宙戦艦ヤマトと機動戦士ガンダムのボーダーラインがあるのです。それはつまり、『公と個の対比』であると思うのです。

 ヤマトの主人公である古代進は戦闘班のリーダーではあるが、彼は超能力者でもなく、身体能力などの点に於いて特別秀でた人物ではない。ただし、敵の攻撃によって家族を失い、その復讐と共に「全人類の未来のために戦う」という大義名分を背負っている。つまり、古代は自分のために戦っているのではなく、家族や仲間のために、人類のために戦っていて、それが自分自身の使命でもあるのだ。

 それに対してガンダムのアムロ・レイは『ニュータイプ』という先天的才能を秘めた人物であり、ストーリーの中に於いてもその部分が全体的に押し出された構成になっている。ガンダムに於いても仲間や愛する人のために戦うという内容は盛り込まれてはいるが、アムロのそれは古代の強い意志とは大きく違っている。そもそも、古代という人物は社交的であり、不幸の中にありながらも『希望』という言葉を失っていない。対してアムロという少年は非常に内向的で、ガンダムを載せた空母『ホワイトベース』に搭乗した理由は避難民である。アムロは志願兵ではなく、都合上仕方なく戦い始めたといえるだろう。古代が抱えている憎しみは、地球を侵略する敵軍ガミラスに向けられたものであるが、アムロ達の場合は不遇の運命にさらされた自身の内面に向けられた部分が強い。つまり、古代は戦いたいのだが、アムロは嫌々戦っているのだ。それは、アムロの声を担当した声優に、『巨人の星』の星飛雄馬を演じた古谷徹さんが起用されていることも裏付けになっているだろう。

 この『悩みを抱えた内気な少年が嫌々戦う』という設定は、エヴァンゲリオンの碇シンジにも受け継がれていくのです。余談ですが、アムロの能力とガンダムのビームサーベルは、『スターウォーズ』に登場するルーク・スカイウォーカーの『フォース』と『ライトサーベル』のパクリだと僕は思っている。そんなことも含め、ガンダムはオリジナリティに欠けた幼稚な作品という印象が強いのです。

 「歌は世につれ世は歌につれ」という言葉があるように、どちらが先かは断定できないが、思春期の子供がアニメやゲームなどの影響を受けていることは事実だろう。任侠映画が流行っていた世代は『ヤクザ』という肩書きに憧れを抱いた人もいるように、アムロの『ニュータイプ』という姿に影響を受けた人もいるかもしれない。さすがに、大人になってまでして「自分には超能力があるかもしれない」なんて特別意識を抱いている人は稀だろうが、潜在意識に働きかけているかもしれないと思われる症状がある。

 ファミコンやパソコンが流通し始めた頃に「切れる子供」が問題視されたことがあった。医学的に立証された訳ではないが、ゲーム脳やネット依存などの症状も報告されているように、ガンダムやエヴァンゲリオンの影響と思われる症状が各世代に見受けられると僕は感じている。皮肉にも『新人類』と呼ばれた世代の人は『ニュータイプ』のガンダム世代に重なっているが、いじめや不登校などの問題が出てきたのも、このガンダム世代以降だと言えるだろう。いじめや不登校は、それ以前にもあることはあったが、そこにある状況は変化している。いじめに関しての変化は、いじめられる対象者が必ずしも弱者ではないという点が挙げられる。昔のいじめられっ子というのは、未熟であったり体力的に弱い者が主な対象とされていた。つまり、『弱い者いじめ』である。しかし、現代のいじめの対象は、活発な子や成績が優秀で先生に評判のいい子などがいじめの対象となるケースが目立つ。そして、いじめている方の人間も不良という訳ではなく、ごく普通の平均的な児童が中心だったりもする。つまり、平均的な普通の子供達にいじめの判断基準が握られていて、その枠からはみ出た空気を読むことができない者がいじめられる対象になっている。そして、不登校児童にも変化が見受けられる。

 昔の不登校児童というのは、学校に行かず、ゲームセンターなどの娯楽がある場所に行ってしまう傾向があったのだが、今の不登校児童は、自分の部屋に引きこもる傾向が強い。前者の不登校児童は、今でいう『プチ家出』をする子に当てはまるのだろうが、『引きこもり』に関しては少し状況が違うだろう。昔の子は、たとえ引きこもったとしても限界があった。つまり、引きこもってはいるが、その状況に満足している訳ではなかったのだが、今の引きこもりは外の世界を完全に拒んでいる傾向がある。つまり、引きこもっている方が居心地が良いのである。また、ネットなどの恩恵にもあやかってバーチャルに社会と繋がることもできるので、退屈することが無い。引きこもりという現象は以前は有り得ないものとして捉えられていたものが、今では広く認識される常識と化してしまったのも、引きこもりに対する後ろめたさを希薄にしているのだろう。そして、ヒットしたアニメの主人公も、つまり、アムロや碇シンジも自分と同じ悩みを抱えた内向的な少年であるがために、そこに自分の居場所を見出してしまっているのかもしれない。僕らの世代にとってヤマトの古代は憧れの対照的要素が強かったのに対して、アムロや碇シンジはその世代の人間にとって『心のよりどころ』的存在なのかもしれない。
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