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愛は地球を救えない

「愛は地球を救う」というキャチフレーズから始まった番組がある。誰もが知っているであろう、黄色い、24時間やっている、あの番組だ。愛は地球を救う。美しい響きじゃないか。でも、地球を愛で救うとは、どういうことなのだろう。

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あの番組が始まった当時、僕は小学生だった。今でもよく覚えている、その頃の記憶がある。あの番組を放送しているテレビ局の有名アナウンサーT氏。路線バス旅行で居眠りしちゃう、あのオジサンね。そのT氏があの番組に出演していたんですけど、メイン会場の壇上に、いわゆる知的障がい者とかダウン症の子供達を並べてね、カスタネットやトライアングル、ピアニカとか木琴を演奏させたんですよ。「プー・チン・ドン♪」てな感じの演奏。幼稚園の演奏会より劣る、音楽とも呼び難いパフォーマンス。その正面に割って入り、声高らかに、マイク片手にT氏は叫んだ。「この子達だって!やればこれだけ出来るんです!」てね。「いや、全然出来てないし、それが出来たから何なのさ」と思いました。

その気持は今でも変わりません。捻くれた奴だなと思われるでしょうが、自分でもそう思います。僕は、子供のことを「チビっ子」と呼ぶ大人が嫌いでした。この人、子供のことバカにしてんだろうなって思ってました。せめて「おチビさん」と呼びなさい。その方が、まだ許される。大人は自分達が子供を養う側にあるという自覚から、そのような態度に出る。いや、別に「子供が可愛いという気持ちから意図せずそう呼んでいるだけだ」と反論される方も居るでしょうが、それはあんたの感傷的な気持ちであって、相手に対する配慮が足りんのですよ。

最近は「障害者」を「障がい者」と表記するようになりました。障がいを持つ人達に対する配慮から、そう表すように変わったのですが、行き過ぎた配慮は時として差別に通じます。例えば、放送禁止用語とか。NHKが番組に出演した方の発した言葉について、「不適切な表現」と謝罪することが度々あります。でも、その言葉を発した著名人が話された内容には、差別的な意味など含まれていない。逆に、神経質になり過ぎるNHKの方に違和感を覚える。差別的とされる言葉を用いないのが倫理的で正しいというのは、上辺だけの、よそよそしい偽善に感じる。言葉だけを変えたところで、問題の核心を改善するには至らないだろう。

「めくら」「つんぼ」なんて言葉は、僕が子供だった頃には普通に使われていました。足を怪我してピョコピョコ歩いていれば、「びっこ引く」と言いました。これ、言ってはいけない言葉なんですよね。「びっこ引く」の「びっこ」の意味まで考えて話している人なんて殆ど居ませんし、「跛(びっこ)」の意味を説いて叱咤する人なんてのも居ません。僕は左利きなので、自ら「ぎっちょ」と表現します。なんの抵抗もありませんし、負い目もありません。でも、子供の頃に箸と鉛筆を右に直されたのには、少し抵抗がありました。僕としては、左利きの子供を無理に矯正するのは、その子の為に成らないと思う気持ちが大きいです。二の足を踏むようになるんですよね。直感的に行動する場合に、問題が生じるんです。脳が混乱するというか、心に引っ掛かりが残るんですよ。左利きの子供を素直に育てるには、その子の才能を伸ばしたいのであれば、右利きに矯正するのは賢明ではないと思います。

左利きを右利きに直すのは、育ちや家柄という世間体を気にしたことから来る躾です。逆に、左利きだから育ちが悪いなどと言っている人の方が、問題多いですよ。要するに、差別や偏見、先入観にとらわれて、目の前にある現実を直視できない人にこそ、障害があるのではないでしょうか。「障がい者」を「障害者」とする定義には、「健常者より劣っている」という考えが含まれています。現代の日本は工業国なので、効率的な生産性に劣る者は、役不足な訳です。なんだかんだ言ったって、障がい者は社会のお荷物だと思っている人は、潜在的には多いと感じます。例えば、駅の自動改札あるじゃないですか、僕あれ凄く使い難いと感じてたんです。その理由は、僕が左利きだから。そうなんです、基本的に社会は右利き用に作られているんですよ。だから左利きの人は、それに適応するよう術を身に付けるんです。右利きの人から「器用だね」と言われることもよくありましたが、そんな自覚はありません。身体に障がいのある人達は、これの何十倍もの違和感を抱えているんじゃないかな。身近な物で気になるのが、道路脇の歩道。あれ、一段高くする必要あるかなぁ。側道の所で切れてる歩道に、僅かな段差があるじゃないですか。あの僅かな段差に危険が潜んでいると思うんですよ。足腰弱った年寄りは蹴つまずくでしょうし、シルバーカーがひっくり返る危険性もある。お金掛けて危険な歩道作ってる気がします。健常者なら気にならない僅かな段差。そこに日本社会の現状が現れている気がします。

大物関西芸人の付人だった「Jちゃん」って居るじゃないですか。今は「画伯」として知られている彼です。彼は運転免許持ってますし、別に障がい者って訳じゃないんですけど、でもなんか違いますよね、普通の人とは。で、彼の描く絵に物凄い値段が付いたりしてるじゃないですか。あれ、理解できないんです僕。なんか、動物園のチンパンジーが描いた絵に高値が付いたりしてる現象と同じな気がします。どのような人が何を思って買うのか分かりませんけど、現代アートって、行き詰まってて、やり場のない矛先が異次元の作者に向かっているだけな気がするんです。もう人類は、宇宙人の出現か、神の降臨がなければ先に進めない限界点に到達してしまったのだろうか。また話が逸れました。

自閉症の人が描く絵に物凄いのとか、ありますよね。でもあれ、「自閉症の人が描いた」と聞いて、「あぁ!」ってなる訳です。その注釈なしでは、それほどの価値はない。自閉症だから、障がい者だからって理由付きで感動してるのって、偽善っぽくて胡散臭いから嫌いなんです。そもそも、絵を描いてる人に向かって「上手ですね」と褒める人って、レベル低い訳じゃないですか。それって、自分を基準にして賞賛してる訳でしょ。例えば、プロのアーティストに対して「上手ですね」って言う人なんて居ないでしょ。失礼でしょ。それと同じ。障がい者が健常者と同じことが出来ると「凄い」って「褒める」んだよね。それ以上のことが出来ると「感動」しちゃうんです。それ、失礼ですから。例えばね、スティービー・ワンダーの曲って、良いの沢山ありますよね。皆んな知ってます。でも、彼が「盲目だから」とか理由付きで感動している人なんて殆ど居ません。もう、そういうの超越しちゃってるんですよね、スティービー・ワンダーって。だけど、障がいのある人の誰しもが、彼のような才能を持っている訳じゃない。昔の「奇形」とされた人達は、見世物小屋で食い繋いでいた。Jちゃんの絵が売れるのは、体のいい現代の見世物小屋みたいなもんかな? いずれにせよ、障がい者とされる人達が健常者並に食って行くのは、なにかと難しい問題、多いですよね。

唐突ですが、愛ってのは、美しかったり素晴らしかったりするもんですけど、ただ闇雲に愛すれば良いってもんでもない。誤ちを愛しても仕方がない。なんでも愛で片付けようとすると、間違いが起こる。余計な愛もあるんですよ。愛すれば良いってもんでもないし、愛されようとするものでもない。愛というものは育むものであり、自然に湧いて来るもんです。要するに、「愛は地球を救う」なんて台詞は、「感傷に浸った人間の傲慢さ」な訳だ。愛で地球は救えない。救うという態度がおこがましい。地球がその気になったら、人間なんて、ひとたまりもない。人類は、せいぜい地球に嫌われないよう、つましく生きて行くことだ。
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